キューブグループの社員が
赤坂周辺のグルメを勝手に採点!
職責とキャラクター上、トラブル対応をすることが少なくないディレクターGです。
ここのところトラブルが少なく、存在価値が薄くなりつつある小職ですが、せめて
食事だけは濃いやつでいこうと本日はバブル時代の定番夜食、ドラム缶ラーメン
「天鳳」で「1(麺硬く).3(油濃く).5(味濃く)チャーシュー」を食べてきました。
トラブルの解決のためには、まずトラブル自体がどういうものであったかという「客観的事実」
をみつけなければならい。しかしトラブルが起きたとき、当事者達(制作スタッフ、営業スタッフ、
発注先、ときにはクライアント)にはそれぞれにそれぞれの思惑、利害関係などがあり、一回の
ヒアリングで全てを把握することは往々にして難しい。
一体客観的事実とは?真実とはなんなのか・・・
「事実」、「真実」を見極めるにあたり、我々は「我々が真実と思っているものは、
それほど普遍的な性質をもたない」ということを忘れてはならない。
ナチスの宣伝相、ヨーゼフ・ゲッベルスは「大きな嘘を頻繁に繰り返せば、
人々は最後にはそれを信じる」と言っていたそうだ。つまり、人間の持っている
「真実」とは外的要因によって変化するものであり、普遍的なものではないということである。
たとえ同じ人物の心の内側であっても「真実」は常に変化している(若しくは変化する
要素を含んでいる)のだ。同じ人物の心の内側でも真実は常にゆらぎ、時間の経過と共に
同一性を希薄にしてゆく。ましてや別人格の心の内側にある「真実」同士が同じなわけがない。
因みに、こうした心のなかで起きる「真実のゆらぎ」を補正し、自己同一性を保つ機能が
人間の脳には備わっている。そして、この働きが機能しない人を自己同一性障害という。
自己同一性障害の人は「自分がどんな人間かわからない」「なにが欠けているかわからない」
という感覚を持ち、もやもやとした不完全な感情に苛まれる。いわゆる「境界性パーソナリティ」
の一つだ。つまり、逆を返すと人間の心なかの「真実」は特別な機能を持ってして
補正しなければならいほどゆらいでいるというわけだ。
我々の「認識」という行為による産物(「真実」というカテゴリーものを含む)は、それぞれ微妙に
ズレている(のはずである。他人の内面を確かめようがないが・・・)、且つ微妙に変化してゆく。
よって、我々は常に「真実」を「真実でない可能性を内包するもの」として認識する必要がある。
要は常に軌道修正可能で柔軟な「真実」をもつことをこころがける必要があるということである。
常に「自分が間違っているかもしれない」という含みを持ち、自分の側の「真実」を過信しない
ということだ。
編集後記:
ある朝、女性コピーライターが私のデスクに来て、
コピーライターT:「昨日、Gさんが夢にでてきました!」
ディレクターG:「マジか!」
コピーライターT:「Gさん夢のなかでゲロ吐いてました」
ディレクターG:「マジか・・・」
就寝中の女性コピーライターの心の内側で何が起きていたのか、その真実を確かめる術はない。
しかし、ディレクターGの心の内側が屈辱に塗れたのは真実である。
(というか報告する必要あるの・・・それ?)