キューブグループの社員が
赤坂周辺のグルメを勝手に採点!
アートディレクターのようすけです。
本日のランチは、『赤坂 金舌(キンタン)』。
当ブログでも何度かご紹介されている、おしゃれで、風情のある内装、接客も高級店さながらの牛肉の専門の割烹です。本日は、デザイン室の3名と一緒に訪れた当店。
なんと、満席です。4人一緒では入れず……。しかし、時間が限られているのが社会人ランチの運命(さだめ)。午後の業務に差し支えると宜しくはないので、取り敢えず2人、2人で別れてカウンター席へ。
以前3人で訪れた時は、奥の襖のある掘りごたつ席で堪能できたのですが、本日は初カウンター席へ通されました。まあ、これはこれで良いかなと。
本日私が注文したのは、金舌炭火焼き定食。
柔らかい炭火焼き肉に温玉を付けてペロリ。
ジューシーな肉と炭火焼きの味わいが口の中いっぱいに広がり満足です。隣にいるayaさんは出汁牛丼をご注文の様子。
ここ金舌は、赤坂TBS隣のBiztowerの前を通る一ツ木通りから二本奥の通りにあります。カラオケコートダジュール近くです。
ちなみに一ツ木通りと言えば、江戸時代には南町奉行所で町奉行を務めたあの大岡忠相の屋敷があったそうです。大岡邸内にあった豊川稲荷は現在も残り、盗難よけの御利益があるとされ信仰を集めているそうです。
大岡忠相って誰?!って方は、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)と聞けばピンと来るハズです。
大岡忠相と言えば、南町奉行所の大奉行と言うイメージ。彼は暴れん坊将軍こと第八代将軍、徳川吉宗の時代に町奉行を務め、数々の逸話を残したっぽく語られたり時代劇で描かれたりしている。
特に有名な話は、ある娘の母親と名乗る二人の母が現れ、これを大岡忠相が裁判する話ですね。
「双方が互いに娘の腕を引っ張り合い、買った方を本物の母親と認める」と言った逸話。
二人の母親が互いに娘の腕を引っ張り合い、娘は「痛い痛い」と叫ぶ。それを可哀想と思った方の母は、つい手を離してしまい、呆気なく決着!「勝負に勝ったので、私が母親よ」と娘を連れて帰ろうとする母親に、大岡忠相は「ちょっと待った~!痛がる娘を見て、手を離した方こそ本物の母とする。これにて、一件落着!」という話です。
実はこの話は『嘘』だそうです。時代劇用に作られた脚本らしいのです。では、実際には大岡忠相は何をしたかと言うと、
罪を犯した際に家族や一族も処分する『連座制』を廃止した事。
拷問するのが当たり前の時代に、冤罪防止のため拷問を重罪者のみに制限した事。
それまで普通に行われていた耳そぎ刑、鼻そぎ刑を廃止し入れ墨刑へした事。
遠島刑、追放刑を制限し罰金刑にした事。
など人の人権を尊重する様な、そんな人物像だった事がわかりますね。これらが名奉行たる所以だそうです。
そんな江戸の城下町の風景をふと思い浮かべてみると、なぜだか違和感が。
そう、この時代の江戸の城下町には城下町のシンボルであるハズの天守閣がないのです。
江戸城に天守閣が無くなったのは、明暦三年(1657年)の事。
この時代は、第4代将軍、徳川家綱の時代です。前述の吉宗の代よりも4代も前の話しになります。
この「明暦の大火」によって消失するまでは、全高60メートルにも及ぶ日本最大級の天守閣であったそうです。
江戸幕府は明暦の大火の後、すぐに江戸城の復興に着手したそうです。もちろん天守閣も再建する計画でした。しかし、結果として江戸城の天守閣は、この時代以降存在していません。
この点について、気になったので調べてみると、そこには大きな理由が存在したのです。明暦の大火の頃、将軍徳川家綱は齢17歳の少年でした。復興に関して、陣頭指揮を執るなど到底無理ですね。そこで、実際に采配を振るううことになるのが保科正之という人物でした。彼は、会津藩主で第3代将軍、徳川家光の異母弟にあたる人物で、家綱の後見人として、幕府政権においてかなりの発言権を有していたそうです。
そもそも天守閣とは、戦時の物見櫓兼、武器庫に使われていたものであり、籠城を強いられた際の拠点となる事が本来の姿でした。しかし、この家綱の時代から内乱は沈静化、大名統治も盤石になり、正に天下泰平の世が訪れたのです。
そこで保科正之は、「天守はもはや無用の長物である」という主張を打ち出し、以降、江戸城には天守閣は存在していなかったのです。
私はてっきり大政奉還が行われたその時までは天守閣が存在していたのとばかり思っておりましたが、実は長きに渡る江戸時代の大半は、天守閣は存在していなかったのです。
当時の城下町に暮らす人々も、天守の存在しない江戸城こそ泰平の象徴として誇らしく暮らしていた事でしょう。
次回は、大岡邸内にあったという豊川稲荷に足を運んでみたいと思います。
【ようすけの勝手にしな採点】
雰囲気:★★★★★
味:★★★★
CP:★★★★